小さな親切、大きなお世話?

こんにちは。
今回は「介護のはなし」を。

同居家族の介護をしている方も多くいるであろう今日。
中には大変な思いや苦労を抱えている方もいらっしゃるだろう。

自身も母とともに、90を超える祖父の介護を日々行っている。
幸いなことに、祖父は大きな病は抱えておらず、また認知の歪みも大きくないため、介護による肉体的な負担はそれほど大きくない。
しかしながら大きな病を患っていないが故の苦労もある。

祖父自身が日々、加齢による身体能力の低下を目の当たりにして、普段は『できていたこと』が今日『できなくなる』ことに恐怖を抱くようになっている。
『元気に歩くこと』、『習字で好きな文字を記すこと』、『好きな書物を読むこと』……私たち介護をするものにとっては不自由なく行えることも、祖父自身には体力の低下-『視力の低下』、『握力の低下』など-によって、日ごとに自由にできなくなってくる。
とてつもない苦痛であるだろう、と心中を察することはできるが、代わってやることもできない。
そんな祖父を慮る心情で手助けになるよう、歩行時に手を添えて付き従うことも多い。

しかし、ふと「本当にその手を添える行為は祖父のためになっているのだろうか?」と、考える時がある。
自身が祖父に手を添えるのは「歩行時の転倒予防」も含まれている。
90を超える祖父がもし転倒して怪我、骨折をすれば寝たきりになることは容易に想像でき、そうなれば祖父のできることは更に少なくなっていく。
それを予防することに間違いではないと考えるが、祖父は本当にその手を必要としているのか?と考えると話しはまた変わってくる。

確かに「転倒予防」は必要なことだろう。
だが、その予防のために必要なのは「手を添えること」とは必ずしも一致しない。

祖父は「歩く」ことや「転倒しない」ことを「自分自身の力で実行したい」のかも知れない。
日に日に自分の力で「できること」が減っている中で「歩く」ことまで失ってしまうと、祖父は精神的に更に追い込まれてしまう可能性もある。
自分自身の力で「できること」を減らさない努力をしている中で、「手を添える」ことでその努力を無駄にしているのなら、祖父にとっては必要なことではない。
そのような考えが、最近殊更に脳裏でこだまする。

自身が「相手にとって必要な手助け」と思ったことも、相手からすれば「余計なお世話」になってしまうことは日常生活の中でも頻繁に発生する。介護においてもそれは同様である。

本当に祖父に必要な手助けは何になるのだろうか?
それは常に祖父のことを見守って、日に日に変化する身体能力に適応したものではないだろうか?
自身の自己満足だけのために「手を添える」ことを実行していては意味をなさない。
日々生きる中に「相手」がいるように、介護にも「相手」がいるのだから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です